[日语版]弟子规全文(2)
4.信
信頼
およそ口に出して言う言葉は、信用を重んじるべきである。
いい加減な事を行って人を騙してはならない。
言葉が多いよりは少ないに越したことはない。言い過ぎれば過失が生じるからである。
実情に合ったことを話し、口先だけのうまい話をしてはならない。
ずるくて巧みな言葉や、下品な言葉を言ってはならない。
市井のよくない風習は戒めなければならない。
状況を未だ飲み込めていない時は、軽々しく意見を言ってはならない。
根拠がないことについて、むやみに人に伝えてはならない。
妥当だと思えないことを軽々しく承諾してはならない。
もし軽々しく承諾すれば進むにしろ退くにしろ身動きが取れなくなる。
話をする時は「はっきり」と「ゆっくり」と話し、
速すぎたりはっきりしない喋り方をしてはならない。
ある人は話が長く、ある人は話が短い。(人の善し悪しの見極めは難しく)
自分に関わりのないことに、みだりに関わってはならない。
人の善い行いを見たら、自分もそうするように心がけること。
その人に自分が遠く及ばないと思っても、少しずつ追いつけるものである。
人の悪い行いを見たら、すぐに内省すべきである。
もし自分の中にも悪い要素があれば改め、なければ自分の戒めとすべきである。
人として大切なのは道徳や学問であり、才能や技芸である。
もし人に及ばないのであれば、自分を鼓舞して励むべきである。
もし衣服や食べているものが人に及ばなくても、
(人として大切なのは徳と修養の深さであるから)憂うことはない。
自分の過失に対して自分で怒ったり、褒められたことを自分で喜んでいると人が聞いたら、
徳のない友人はあなたに近づき、あなたに有益な徳のある友人は離れていくものだ。
人が自分を褒めるのを聴いて不安に思い、欠点を指摘されたら喜んで受け入れる。
そのようにしていると正直で誠実な人は、あなたと親しくなっていくものだ。
无心非 名为错 有心非 名为恶
知らずに過ちを犯すことを「間違い」と言い、
故意に過ちを犯すことを「悪」と言う。
過失を認めて改めることができれば、無に帰する(善い人だと見直される)が、
過失を認めずごまかしていれば、過失の上に過失を重ねることになる。
5。泛 爱 众
博愛
どのような人であっても、みなお互いに愛し合うこと。
私たちは同じ天の下に、同じ大地の上に生きているからである。
徳の高い行いをする人は名声は自然に高まるものである。
人が尊敬するのは品行であって、容貌の良し悪しではない。
才能豊かな人の名声は自ずから高まるものである。
それは人々が敬服するからであり、自分で吹聴するからではない。
自分に才能があっても、私利私欲を貪ってはならない。
人に才能があるとしても、嫉妬や中傷をしてはならない。
金持ちに媚びへつらってはならない。貧しい人に傲慢な態度をとってはならない。
古い友人に愛想をつかしたり、新しい友人ばかりを好んではならない。
人が忙しいときは、自分の用事があるといっても邪魔をしてはならない。
人の身心が不安定なときは、話しかけて混乱させてはならない。
人に欠点があっても、誰かに吹聴してはならない。
人に隠し事があるとしても、人に話してはならない。
人の善い行いを褒めることは、善であり美徳である。
なぜなら人がそれを知れば、さらに善い行いに努めるからである。
人の悪い行いを吹聴することは、悪い行いである。
行き過ぎた憎悪で吹聴すれば、自分に災いをもたらすからである。
善の行いをお互いに勧めることは、共に徳を建てることである。
もし過失があるのに互いに忠告しないなら、双方に道徳的な欠陥がある。
人から物を受け取るとき、或いは人に物を与えるときはしっかりと区別し、
人に与えるのは多くして、人からもらうのは少しにすること。
人に依頼するときは、先ず自分に問うてみて、
自分でもやりたくないと思うことであれば、人に依頼すべきではない。
人から受けた恩には報いたいと願い、人の過失に対するわだかまりは忘れようと思う。
怨みごとはすぐに忘れ、人の恩は長く覚えていること。
家の使用人に対しては、自分の品行を正すことが大切である。
品行を正した上で、人に対して慈愛と寛容の心を持つこと。
権威で人を服従させるなら、人は心の中に不満を持つものであり、
道理を説いて人を承服させるなら、人は不満の声を上げないものである。
6.親 仁
仁徳のある人に親しむ
同じ人であっても仁徳の程度は異なっている。
通俗的な潮流に流れていく人は多くても、仁徳のある人は極めて稀である。
本当に仁徳のある人には、人々は心から敬意を表す。
仁徳のある人の言葉は真っ直ぐで、へつらうことがない。
仁徳の高い人と親しくすることはたいへんすばらしい。
仁徳が日に日に身に付き、過ちが少なくなっていくからである。
仁徳の高い人と親しくしないことは大きな損害である。
小人が機に乗じて近づいてくると、良いことは何もない。
7.余力学文
餘 力 學 文
余力学文(道徳の実践をして余力があれば、六芸など有益な学問を学ぶ)
学んだことを実践しないのであれば、
うわべだけの飾りばかりであり、有用な人物になることはできない。
努力したとしても学ばなければ、
自分の見解に固執して、道理を理解することはできない。
読書には三つの注意がある。
「心」で記憶し「眼」で見て「口」で読む、すべて必要である。
今この本を読んでいるときに、別の本を思ってはならない。
この本を読み終わっていないのに、別の本を読み始めてはならない。
学習する期間にはゆとりが必要だが、学ぶときは時を惜しんで努力すること。
学問が一定の水準に達すれば、理解できなかったことも解けてくるものである。
学習中に疑問が出てきたら、すぐに記録すべきである。
いつでも人に教えを請うことができ、疑問を正確に把握するためである。
部屋の中はきれいに整理し、壁は清潔を保つこと。
机はきれいにしておき、筆や硯などは真っ直ぐに置くこと。
墨を磨るときに偏っていれば、心がまっすぐでない。
字がぞんざいであるなら、心が集中していない。
書籍の置き場所は定めておくこと。
読み終わったら、必ず元の場所に戻すこと。
たとえ忙しくても本は整理して置くこと。
もし本が傷んでいれば、すぐに補修すること。
聖賢の書でないものは(身心の健康に無益であるから)見ることはない。
人の聡明さを覆い隠し、志を傷つけるからである。
自分で自分を損なったり、自分で自分を放棄してはならない。
聖人や賢人もまた、学びによって到達したのである。<注釈>
六芸(りくげい)・・・中国、周代に、士以上の位の者の必修科目とされた六種の技芸。礼(礼儀)、楽(音楽)、射(弓)、書(書道)、御(馬術)、数(数学)。
相关文章:
相关推荐: